戦争を知らない世代の私が、アイルランドで原爆を語る理由

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毎年この時期になると思い出すことがあります。

あれは確か、2010年の8月のある暑い夜の出来事でした。

その頃の私は毎日朝から晩まで絵ばかり描いて、家に閉じこもる生活が続いていました。

 

ふと、気がつくと時計の針は夜の9時を過ぎていました。

 

私は、何を思ったのかいきなりパソコンを開いて、翌朝出発のANA羽田発広島行きの航空券を予約しました。今では理由が何であったかは、よく覚えてはいません。

 

とにかく、無性に広島の原爆ドームを訪れたくなったのです。

 

原爆ドームを訪れたのはそれが生まれて初めてでした。

 

その日の広島は非常に暑く、ひきこもり気味で体力が落ちていた私には、広島駅から原爆ドームまで歩くだけで、精一杯でした。

 

とにかく何とか気力を振り絞って公園を一周し、原爆資料館を見て、帰りの飛行機に間に合うように早々と引き上げました。

 

かなりタイトなスケジュールと暑さで、自分が何のために広島に来たのか、ぼんやりとした頭で考えるのもしんどかったです。

 

原爆資料館で惨状を見て、その上とんでもない蒸し暑さで、半ば思考停止気味だった私の頭と心がやっと動き出したのは、帰りの飛行機に乗ったあたりからでした。

 

離陸してからすぐさま、ふと窓の下に目を向けると、言葉を失うほどの美しい景色が目に飛び込んできました。そこで一気に目が覚めた気がしたのです。

 

後から調べると、その景色の場所は「しまなみ街道」という島々だという事が判りました。その名の通り、いくつもの小さな島々が夕日に照らされる黄金の海に、神々しく浮かんでいるのです。

 

世界屈指の絶景として知られるアドレア海に沈む夕日も美しかったのですが、それを遥かに上回る美しさでした。

 

わたしが、その光景を目にした瞬間、物凄い衝撃が走りました。

 

それは、悲しみとか恐ろしさとか怒りといった感情のさらに上を行くものでした。

 

 

 

「私が今見ているこの耐え難いほどの美しい景色を、あの人も見ていたはずだ。」

 

その人は原子爆弾アメリカから運んできて、この広島に投下した。

 

「その人は私と同じ人間で、私と同じようにこの美しい景色を感じることができたはずなのに、どうして、こんな場所に原爆を落とすことができたのだろうか?」

 

この疑問こそが、私が生まれて初めて、自分の体験を通して「戦争」という事に真摯に向き合った瞬間だったと思います。

 

地上は被害者が見ていたのと同じ目線です。

 

しかし、上空は加害者が見ていたのと同じ目線なのです。

 

上空から広島を見てはじめて、戦争が一人の人間をどれほど狂わせるかという事に気づいたような気がします。そして、上空からは、可愛い子供や赤ちゃんの笑顔が全く見えないことにも。。。

 

これは、わたしが、人はもともと本性は基本的に善であるとする性善説を信じていることがベースとなっています。

 

もちろん、例外の場合もあるので、一概には言えないのですが、少なくとも原爆を広島に落としたパイロットのインタビューの発言内容や様子からは、まともな方だと感じました。

 

 

この広島での体験は、それまで学校の授業や教科書を通して「知識」として蓄積されたものを覆すほどの「力」がありました。

 

それは、暑い中体を張って原爆ドーム後の公園を周って、しんどくて、余計な知識の供給が停止していたからこそ、得ることができた体験ではないかと思うのです。

 

それからちょうど2年後の2012年8月の上旬に、私は機会があってアイルランドに住むイギリス人の知り合いのお宅で生け花を教えることになりました。

 

教えると言っても、独学で学んだ代表的な流派の本や資料をコピーして、それを持って行きみんなで勉強したと言う感じです。

 

その時に、とにかくみんなで見よう見真似で、各々の生け花の作品を作ってみようということになりました。

 

基本はどの流派も共通して「天・地・人」を作品に取り入れることです。

 

私の作品が出来上がると、作品のコンセプトをみんなの前で発表して欲しいと頼まれました。

 

その日はちょうど8月の6日でした。

私はこの時期になると、どうしてもあの広島での体験が頭から離れないのです。

そして、それは作品のコンセプトにもなりました。

 

私が皆さんに説明したのは、以下のようなものでした。

 

67年前のちょうど同じ日に広島に原爆が落ち、その3日後の9日には長崎に原爆が落とされました。

 

何十万人もの命が一瞬で奪われました。その中には、戦争責任のない子供や赤ちゃんも多く含まれていました。

 

私の母は、広島に原爆が落とされた数年後の8月7日に生まれました。そして私は数十年後の8月10日に生まれました。

 

私たち親子の誕生日は奇遇にも、2つの都市に原爆が落とされた翌日なのです。

 

毎年、私たち親子の誕生日がやってくると、複雑な気持ちになります。

 

一方では死に対する哀悼を、他方では生に対する歓喜を。

 

世の中とはそのように成り立っているものですが、何か繋がりを感じます。

 

生け花の起源は、仏に花を供えること、つまり供花にあると言われています。

 

多くの命が失われたこの日に、たまたま私たちが生け花を作ったのも、何かの縁なのでしょう。

 

なので私の作品は、原爆で命をなくされた人たちへの供花とさせていただきたいです。

 

と伝えました。

 

みなさん親日家なので原爆については良く知っていますが、正確な日はご存知なかった人も多いようで、熱心に耳を傾けてくれました。

 

戦争を知らない世代の私が、他の国に行って戦争について語るのは、何か違和感があります。それに日常の生活に追われそれどころではない年もあります。

 

とはいえ、戦争の危機はいつでも私たちと隣り合わせにあります。

 

今こうしている間にも、中東、アフリカなどでは戦争により多くの幼い命が奪われています。

 

しかし、どんなにそれが非人道的で見るに耐えない事であっても、私が個人的にそれに対してできることは限られています。

 

だからこそ、せめて1年に1度だけは、無念にも命を絶たれた死者たちからのメッセージを受け取り、そこに思いを寄せたいと思うのです。

 

 

今日も読んでくださいまして、ありがとうございました。

 

この記事は、2017年8月10日にアップした記事を、少し修正したものです。